マイナス霊の種類とその影響
はじめての救霊
救霊ってどんなもの?

深見東州先生の著書の救霊(除霊)に関する箇所
「神霊界」  第三章 いま明かされる除霊奥義 より
神霊界

●山伏が水子の霊に化けていた!

「そうですか、わかりました。それでは早速、除霊しましょう」
私は型通りに怨念霊、先祖霊、動物霊などを次々と救済除霊し、残すは三体の水子霊だけとなった。

(略)

仕方なく私は、天眼通力で相手の正体を見ることにした。一人の山伏の姿が見える。時代は戦国末期、一人の山伏が敵側との内通の嫌疑をかけられ、斬首されようとしている。これでわかった。

と、その刹那、水子の姿をしていた相手の霊が、岩を思わす大きな山伏の姿にパッと変身したかと思うと、私を金縛りの術にかけ、大声で叫んだ。
「深見東州とやら! よくぞ見破った。ワシの正体を見破ったのはお前が初めてじゃ。だが、もう何もできまい。余計なことをするからじゃ。お前には何の怨みもない。もう、除霊なんかあきらめろ! そうすれば金縛りを解いてやる」

だが、降参するわけにはいかない。とりあえず金縛り破りの術でこれを解き、再び説得しようとした。すると今度は、

「ホホウ、なかなかやるではないか。だが、これは破れまい」
と、眠りの術をかけてきた。生前、相当な霊能力を体得した山伏らしい。
「どうだ参ったか。お前には怨みはないが、あまり邪魔だてすると許さんぞ!」
もの凄い睡魔が襲ってきた。が、これも睡魔破りの術で解くと、また別の術をかけてきた。

こんな具合に、術のかけ合い破り合いがしばらく続いたわけだが、この間にも、ご神霊より来る愛念と真心の光を山伏の霊に当て続けることを、私は忘れなかった。

術と術の応酬、力と力の応酬では、たとえこれに勝ったとしても相手は心から納得しない。それどころか、術と術、力と力の戦いで敗れると、一層凶悪化し、怨みを深くするのが怨念霊の常である。

(略)

したがって、力と力、術と術との対決に心を奪われていては、除霊に失敗することになりかねないのである。もちろん、相手に対応できるだけの術と力は必要だが、やはり最後は、愛念と真心で締めくくるべきである。

愛念と真心。これが除霊の、いや、除霊のみならず神霊に守られ、人々の誠意と敬意を勝ちとる人生の極意といってよいだろう。

だが、その愛念と真心も、自分の事情や相手が誰であるかによって変わるようでは、本当の愛念、本当の真心とはいえない。何ものにも左右されない、普遍的な愛念と真心でなくてはならない。そして、その普遍的な愛念と真心は、結局、神より来たるもの以外にはないのである。

それゆえ、本当の救霊師とは、何よりもまず、山のように揺るがざる固い信仰心と、ほとばしるほどの強い愛念の持ち主をいうのである。

(略)

●我を捨て去るとき心眼は開く

では、そのように自分を磨くには、具体的には何をどのようにしたらいいのか。それは、ひとことで言うなら己の気負いや我力を捨てて、虚心坦懐に徹することである。自分を虚しくすることである。我をなくすことである。金銭欲をなくして、水晶のように澄みきることである。
「俺が、この霊を追い払ってやるのだ」
「自分の霊力で除霊してやろう!」

こう思っている限り、行者霊などの高度な表象能力のある霊は見破れない。「俺が、俺が」という想念が心眼を曇らせてしまうのである。

いかに、自分を捨てることができるか。これが全てを決定する。

(略)

いかにして無念無想の境地に達するか。仏道にせよ修験道にせよ、あるいは剣道、柔道にしても、およそ求道者と名のつく限り、誰もがこの無念無想一切放下(ほうげ)の境地を求めて、古来、修行に励んできたのである。除霊もこれと同じである。

(略)

●学問を積んで独善を防ぐ

ところで、除霊をするには己を虚しうして、明鏡止水の如き澄みきった境地に至ればそれだけでいいのかというと、決してそうではない。どうしてもやらなければならないことが、もうひとつ残っているのだ。

それは、学問の研鑽である。

先ほど、真の除霊をするための要素として信仰心、愛念、明鏡止水の境地を挙げたが、このうち最も大切なのは信仰心である。なぜなら、神に通ずる心がなければ普遍的な愛念はあり得ないし、神に全てをゆだねきるだけの絶対的信仰心がなければ、明鏡止水の境地に至ることができないからである。

それゆえ、除霊を承る限りは、何よりもまず神仏に対する信を全うしなければならないのである。だが、無知であっては、神仏を信仰しようにも信仰心など湧き起こらないのが現実だ。また、たとえ信仰心が湧き上がったとしても、心を磨き、己を省みて真理に根ざしていなければ、とかく誤った方向に流れやすい。だからこそ、学問を研鑽して真理を探究しなければならないのである。

これが学問を積まなくてはならない大きな理由であるが、もう一つ、もっと現実的な理由がある。それは、仏教、神道、あるいはキリスト教など各宗教の奥義を会得していなければ、ときとして除霊できないことがある、ということである。

(略)

さて、その勉強の内容だが、日本霊界に霊籍を置く限り、最低でも「古事記」「日本書紀」「古語拾遺」「宣命」などの神典、および六国史は学んでいただきたい。また、仏教系の霊能者であるならば、宗門宗派に偏ることなく、釈尊の真愛を深く、広く、大きく汲み取る研鑽を重ねていただきたい。とくに密教系の場合は、弘法大師のあの幅広く厚い教養あっての真言密教であったことをお忘れにならないでほしい。

とにかく、霊能者といえども、否、霊能者だからこそ、古今の文献に通じ、幅広く見識を求める必要があるのである。霊能者が、直接的に人々の運命に対する忠言、忠告を与え、また、人生の指針を与える立場に立つ場合が多いことを考え合せれば、なおのこと勉強する必要があると言えよう。